| 第5回 |
横浜から思い出がいっぱい
―写真―
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このコーナーは、西洋から横浜を通してはじめて日本に入った文化やモノを紹介、その歴史と現在をお伝えする温故知新企画です。今回のはじめては「写真」。今でこそ多くの方々の思い出の証として活躍していますが、その活躍の日本初は横浜からでした。
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下岡蓮杖(しもおかれんじょう)横浜へ
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| 「・・・弁天通は開港後、外国人向けの店で賑わった」 |
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伊豆下田で生まれの下岡久ノ助(後の蓮杖1823年〜1914年)は、江戸に出て、狩野董川法眼(かのうとうせんほうげん・幕末の画家。明治4年没)の弟子となり董圓(とうえん)と名乗り絵を勉強していた。ある日、師の使い先で、オランダから日本に渡ってきた「銀板写真」というものを見せられた。写真に興味を覚えた董圓は、写真の勉強をしに長崎へ旅立つ許しを師に得て、志し高く旅立った。 董圓は、蓑を背負い、杖をつき、旅を続けていた。杖には「董」という字にちなんで唐桑に蓮根の形が施されており、蓮の葉に止まる蛙も彫刻されていたという。この杖が有名になり、董圓は「蓮杖(れんじょう)」と名を変えることになる。(蓮杖は年寄りに見られたくなくて、あまりこの杖を使わなかったという)しかし、旅を続けるはずだった蓮杖は、肝心の長崎に行く路銀が少ないことに気づく。その上、長崎に行くまでの時間もかかる・・・。そんなとき、浦賀にペリーが来航したことを知る。このことで、結局、長崎行きを取りやめ、浦賀に向かい、浦賀奉公所の足軽となる。アメリカ人との接触を願っていたが、故郷の下田が開港したことを期に、下田に戻る。幸運にも下田に着任したアメリカ総領事ハリスの給仕として玉泉寺に住み込むことに成功。安政3年7月のことであった。玉泉寺にはハリスの通訳、ヒュースケンがいた。ヒュースケンは、事細か
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| 弁天通と馬車道の交差点を左に曲がると・・・。 |
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に写真術を蓮杖に教えた。三脚の代わりに木の枝を3本立て、カメラの変わりに紙で作った箱で説明。「カメラの中に薬品を塗ったガラス板を入れ撮影し、暗室でそのガラス板を現像すると像が浮かび上がってくる」。蓮杖はこのことを興味深く聞くと早速、竹の筒で試してみるも失敗に終る。その後間もなく蓮杖はハリスの下を去り、横浜へと移った。万延元年のことであった。
試行錯誤の日々
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| すぐ左側に記念碑が。 |
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蓮杖は諦めてはいなかった。横浜に移り住んだ後、居留地のアメリカ人雑貨商ショイヤー婦人から洋画の描き方を学んでいた蓮杖であったが、この雑貨屋にアメリカ人写真家ウンシンが訪ねて来たと聞くと、これ幸いとウンシンに写真の指導を懇願する。ウンシンは多忙を理由に断るが、ウンシンの助手であったラウダー女史から教えてもらうことになった。その後、ウンシンが帰国する際、蓮杖は自分が書いた日本画とウンシンの持っていたカメラや薬品類と交換することに成功。ショイヤー家の一室を借りて研究を続け、その後は横浜戸部に移り、家を借り、研究に没頭した。しかし、木と紙で出来た日本家屋は、暗室に向かない。そこで蓮杖は自ら暗室を作ることにしたが、金がないのでトイレの窓に眼張りをして暗室の代用とすることにした。借家のトイレは共同の時代。隣家からあっという間に苦情が出て、これは失敗。今度は古い屋台を暗室とするべく改造を進めたが、思うような成果はあがらなかった。そんなこんなで成果の上がらぬまま、年月とともに借金の額だけが跳ね上がっていくばかり。さすがの蓮杖も「もはやこれまでか・・」と、最後の一枚を現像したそのとき、像がはっきりと浮かび上がったのだった。蓮杖は喜んで、女房の着物を売り払い、野毛に小さな写真館を開店した。写真を志してから18年目のことであった。
写真の開祖として
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| 逆側の車道側には「1862 横浜に写真館をひらく」と書いてあります。 |
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しかし、巷では「写真を撮ると命が縮む」という迷信がまことしやかに囁かれていた。この迷信を信じる人は当時非常に多かった。暫く野毛で開業していたが、文久2年7月、弁天通に移転を決断(当時出版された「珍事五ヶ国横浜はなし」(著者・松柏(しょうはく))・「美那登能波奈(みなとのはな)横浜奇談」(著者・菊苑(きくえん)老人)のなかでも蓮杖が弁天通5丁目にいたことを紹介している)。当座の運用資金にも困っていた蓮杖は、油絵を描き、外国人に売って写場を造ったという。しかし、ここから写真撮影の一大ムーブメントがやってくる。その火付け役は、その頃世情により、自分が生きた証を望んでいた
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| 弁天通を右に曲がると県立歴史博物館。 |
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浪士たちであった。また、横浜に駐留していた外国人たちも撮影に訪れ、店は大繁盛。たまりにたまった借金もたちまちのうちに完済したという。慶応元年、蓮杖は店を閉め、下田に帰ったが、明治元年、再び横浜に戻り、馬車道太田町に写真館を開設。また、弁天通にも再び写真館を建設し、明治4年以後は馬車道の店を支店とした。また、写真師(カメラマン)として、明治5年に横浜港内で発生したアメリカ太平洋郵船会社アメリカ号が起こした火災の様子を夜間撮影に成功。これも、わが国で初めての快挙であった。時は廻って、昭和62年6月1日。馬車道の弁天通の馬車道スクエアビル前に「日本写真の開祖、写真師下岡蓮杖顕彰碑」が建立実行委員会によって寄贈された。
現在ではフィルムからデジタルへと変化しつつある写真ですが、フィルムにはフィルムの味わい(フィルムルック)があるそうで、多くのファンの心を捉えて離さないようです。たまにはデジカメを一休みさせて、押入れの中にしまってあるフィルム式のカメラを片手に、横浜の街並みを撮影しながら、蓮杖の足跡に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。
(文・大塚 みき) |
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