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第6回

はまっ子の公共性の証
―公衆トイレ―


公衆トイレ

このコーナーは、西洋から横浜を通してはじめて日本に入った文化やモノを紹介、その歴史と現在をお伝えする温故知新企画です。今回のはじめては「公衆トイレ」。長年続いた日本の風習・文化にも影響したはじめてでした。


立小便をするのは「なんでもない」こと!?

日本大通り付近
開港後、日本大通り付近に日本ではじめての公衆トイレが設置された。
 開港後、横浜へ来た外国人たちが不快に思ったのは、日本人の立小便であった。当時、日本人にとって、立小便というのはなんでもないことであったらしい。紳士・淑女という考えが浸透していた外国人にとって、そんな日本人の風習は非常に気になることであった。そして開港後、居留地の外国人達からの日本人に対する立ち小便への苦情が当然、続々とよせられた。幕府はそれを受け、この日本人の悪習をやめさせようと「往来にて小便致し候儀、外国人に対し恥じ入り候につき決してこれなきよう」と、罰金50銭付きの触れを出したが、まったく効果はなかった。



日本で初めての公衆トイレ誕生

 そこで、1871年(明治4年)に横浜町会所の費用で、町の辻々83箇所に板で囲った簡単な便所(つじ便所)を設けた。これが日本ではじめての公衆トイレの始まりとされている。そして、「今後みだりに放尿するものは巡邏(じゅんら)取締りの見咎め次第、ただちに銭100文の罰金に処す」と布告。つじ便所とは、四斗樽を埋め、周りを板囲いしたものだった。後に、
開港記念公園の公衆トイレ
開港記念公園の公衆トイレ。裏には滝が。
人口も次第に増えて市街地も拡張され、文化都市として、また、横浜に住む日本人も公共性が芽生えてきたこともあり、このような便所では外見も悪く、道に溢れ出ることもあったので、改善の方法が考えられた。利用の多い地域はかめを埋め、屋根をつけたものに改良し、全体で40箇所とした。だが、これらの便所はまだまだ、体裁の良いものではなかった。



もっと使いやすく、もっと衛生的に

 そんな時、横浜の薪炭商をしていた浅野総一郎が、便所の改造に取り掛った。町会所の今西相一の力を借り、神奈川県の許可と、2000円の補助金を得て、1879年(明治12年)に63箇所の新しい便所を完成させた。
彼は毎朝4時に起きて、市中の便所を見回り、汚れたり、壊れたのを見つけるとすぐに人をやって掃除や修理をさせたので、
開港記念公園内にある下水道
開港記念公園内にある明治時代から使用されている下水道。有形文化財。
横浜の街は見違えるほど衛生的になった。また、便所から集めた汚物は、近郊の農家へ肥料として出荷し、商いにもしていたということだ。



下水道の発達と水洗便所

 そして同じ頃、イギリス人のブラントンの設計で、土を焼いてつくった土管を道路の中に入れるいわゆる「下水」の工事が行われており、明治12年にはわが国はじめての下水道である、外国人居留地内の下水道が出来上がっていた。その後の明治14年〜20年には、日本人の三田善太郎の設計で、ブラントン設計の土管をレンガでつくった卵型の形へつくり変え、関内や元町などにも下水道をつくった。このことにより、汲み取り式から水洗式になっていくが、公衆トイレより、外国人居留地のクラブや、グランド・ホテルなどの公共施設内のトイレが早かったという。



 今ではごく当たり前に利用している公衆トイレ。呼び名も最初は公同便所と呼ばれていましたが、1895年(明治28年)ごろから「共同便所」と変わり、その後、「公衆便所」となり、現在では「公衆トイレ」と呼ばれるようになりました。そんな横浜発祥の公衆トイレ。横浜市では市内の公園や中華街など、環境事業の一環として公衆トイレの設備の向上に力を注いでいます。そして、ハマっ子たちには約130年前に公衆トイレとともに培った公共性が今も尚、受け継がれているはず。横浜のトイレは、他の地域より綺麗?!これからも綺麗に清潔に使いたいものですね。

(文・取材 大塚 みき)

赤レンガパーク内に設置されている公衆トイレ 内部 個室内部
赤レンガパーク内に設置されている公衆トイレはバリアフリー仕様。 手洗いスペースは広く、段差や角がない。 大きな明け易い扉の向こうには、オムツ替えシート、手すりが。
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