| 第8回 |
日本の近代化へ出発進行!
―鉄道―
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このコーナーは、西洋から横浜を通してはじめて日本に入った文化やモノを紹介、その歴史と現在をお伝えする温故知新企画です。今回のはじめては「鉄道」。それはペリー来航時の「大きなお土産」から始まりました。
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| 明治44年に桜木町と新港ふ頭を結ぶ引込み線が開設。 |
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| 石畳の一部と化しても、海岸に沿ってうねる線路は観光客の足を止める力がある。 |
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| この道から開港が始まり、桜木町から鉄道の歴史が始まった。 |
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ハイテクノロジーの輸入
嘉永6年幕末の頃の夏、ロシア使節海軍中将が軍艦3隻を率いて長崎に入港した。この船上で、佐賀藩氏本島藤太夫らにテーブルの上を走る長さ20センチの模型の蒸気機関車を見せたという。これが日本人が始めて見た汽車、鉄道模型だった。
安政元年にアメリカ使節の海軍代将ペリーが横浜へ来航した時の日本へのお土産の中に、フィラデルフィアのノリス兄弟商会が制作した小型の上記機関車があった。小型といっても先述した模型クラスではなく、人が運転するタイプ。この機関車を試運転することになり、同年2月から軌道の敷設工事を始めた。そしてその約1週間後、ついに日本人を乗せた機関車が、日本の大地を走った。その時速は32キロメートルだったという。今でこそ遅いが、当時の交通手段はまだ自分の足か馬の時代。その様子を目にした当時の日本人は外国の技術にただ驚くばかりだったという。これがわが国で汽車が走ったはじめてである。
外人ビジネスマンと政府の利害
その後、横浜が開港すると、外国の文化が一気に日本に上陸。近代化を目指す日本政府と、未開拓地でのビジネスで一攫千金を狙う外国人との利害は一致していた。もちろん汽車についてもその例外ではなく、多くの外国人が政府に意見書を提出していたが、そのビジネスは決して簡単なものではなかったようだ。
意見書を提出していた外国人の中にレーというイギリス人がいた。彼は東京から横浜間での鉄道建設に名乗りを上げていた。明治政府は明治2年11月10日、ついに鉄道建設の決定を行い、鉄道建設資金の借り入れと技術者雇用に関する契約をそのイギリス人レーと結んだ。しかし、レーは資金集めに失敗。100万ポンドという負債を政府が負うことになり、レーとの契約はもちろん解消され、政府は明治3年5月24日にオリエンタル銀行横浜支店へ公債募集委任を決めた。これはわが国初の外債となった。ちなみにこの募金のうち、約30万ポンドが後の鉄道建設用資材の購入に当てられたという。
国を挙げての営業式典
レーの事件中も鉄道建設計画は止まることを知らず、同年3月にイギリス人技師モレルを鉄道建築師長として横浜に迎えいれていた。東京の芝口汐留付近から測量を開始、4月には横浜野毛海岸の測量にも着手し、翌年の明治4年8月6日に横浜から神奈川間で試運転が行われた。そしてその翌年の明治5年2月、品川までの敷設が終了。同年3月に横浜から品川間で仮営業が行われた。
いよいよ本営業も目前というとき、この鉄道建設に尽力してきたモレルが過労で急逝。山手の外人墓地に手厚く埋葬された。昭和になると中山沖衛門という人がモレルの墓石を自費で建設。墓石には鉄道乗車券が型どられている。
モレルの死後、明治5年9月12日、横浜から新橋間でついに営業スタート。横浜で開催された開業式典には明治天皇をも出席されるという国を挙げての記念日となり、おおいに盛り上がったという。
現在では旧横浜駅であった桜木町高架下に鉄道開通の記念碑がある。碑には時刻表、料金表などが記載されており、開通当時の汽車利用事情が垣間見れる。当時の乗車券は階級で分かれており、下級乗車券でも50銭、現在の価値に換算すると5000円という破格の値段で、犬は25銭(犬も高額!)。
2004年の東横線廃止から同駅は工事が絶え間ないが、取材に行った日はなんと碑のまわりをぐるっと工事中。現場で働く方に無理にお願いし、無事に碑を撮らせていただいた。これからの桜木町駅がどのように変化するのかも楽しみではあるが、古いものがなくなるというのは確実に切ない。
(横浜ベイサイドウォッチ 2007.3.29 取材・文 大塚みき)
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