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第9回

西洋の魔術はメールのルーツ?!

ー電信ー


電信操業の地

このコーナーは、西洋から横浜を通してはじめて日本に入った文化やモノを紹介、その歴史と現在をお伝えする温故知新企画です。今回のはじめては「電信」。現在ではメールという手段で、誰もが手軽に安価で文書を送ることができるが、当時はそうではなかったようだ。

記念碑
横浜地方検察庁入り口横の花壇の中にある記念碑
ペリーの贈り物
 嘉永7年(1854)、アメリカ使節海軍大将ペリーが再来航時の折、時の将軍であった第13代将軍徳川家定へ蒸気機関車の模型などとともに贈られた献上品のなかに、モールス信号で知られるモールス電信機があった。興味を持った幕府は安政元年2月に外国人技師の指揮で電線が引かせ、「YOKUHAMA」などの文字の送信に成功。これが、わが国における電信機のはじめてだといわれている。
モニュメント
大桟橋通りのビルの壁面にモニュメントが貼り付けられるように配置されている。

旧横浜市外電話局
信号を渡ると横浜認定歴史的建造物の旧横浜市外電話局(現・横浜市発展記念館)。
イギリス人技師の活躍
 その後も幕府はスイス・オーストラリアの外交官とともに電信建設の計画を進めていたが、明治維新が勃発し、その計画は頓挫してしまった。しかし、新政権である明治政府は新たに電信の実用化を計画。明治元年12月に電信仮設を決定すると、ギルバートというイギリス人技工師を来日させ、計画を進めていった。
 明治2年、ギルバートは内務省の管轄の下、横浜燈明台役所(現・中区北仲通)に事務所を開設。そこから、約700メートル先の神奈川裁判所(当時・中区本町通)間に電線を架設し、電信の実験に成功させると、9月19日には神奈川裁判所から東京築地運上所までの約32キロメートルの電線工事を行った。同年末12月25日に神奈川裁判所に横浜電信局が開局され、非常に短期間でわが国ではじめての公衆通信を成功させた。

ハマっこの混乱
 通信が始まると同時に、通信規則や料金が定められた。横浜電信局の電信の取扱いは朝8時から夜の8時まで。代金は「カナ1字ニ付、銀1分ノ割合」、至急扱いでの割増料金も設定されており、その料金幅は地域によって異なっていたという。当時の価格を現在の価格で換算すると、カナ1字が約400円弱、至急割増は約30,000円と、庶民には手を出せない、非常に高価な通信料だった。
 高価を出せば、文字が送られ、受け取れるこの電信を、「西洋の魔術“テレガフ”」と恐れた庶民は、電柱を引き抜いたり、切り倒したり。そうかと思えば、電線にものをぶら下げておけば送ってもらえるものと勘違いし、いたずらに似た事件が頻発。困った政府は電線係の役人を任命し、京浜間の電信線の見回りを行うという対応を余儀なくされたという。しかし、その便利さは次第に知れ渡り、徐々に正しい使い方が一般へと浸透し、混乱も同時に収まっていった。
電話交換も横浜が発祥
 朝夕の通勤時、電車の中で携帯電話を操作している人を何人見かけるだろうか。誰もが日々、当たり前に行っているメール通信。その前身ともいえる通信は、新しいものが好きなハマっこにしておいても、当初は受け入れがたいものであったようだ。ちなみに、本来の携帯電話の主な機能である通話も横浜が発祥。明治23年12月26日に横浜電話交換局が開局され、交換手を通し、直接相手と会話をすることが可能となった。当時の加入者は横浜で42名、東京で150名。
 それが現在では、小学生でも持っていて当たり前の時代となった。同時に幼いものが持つとさまざまな問題を引き起こすMONSTER TOOLとなり、社会問題としてメディアに取り上げられることもしばしば。ハマっこが受け入れがたいと感じた理由は、未来の私たちの姿が見えていたからなのかもしれない。正しい使い方が浸透すれば混乱も収まっていくだろう。約120年前のように。

(横浜ベイサイドウォッチ 9月27日 撮影・文 大塚みき)
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