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第10回

外交に必須的ツール

ー 近代競馬 ー


近代競馬

このコーナーは、西洋から横浜を通してはじめて日本に入った文化やモノを紹介、その歴史と現在をお伝えする温故知新企画です。今回のはじめては「近代競馬」。このはじめては開国したばかりの日本の外交に深く関わるものだったようだ。

狭い居留地から
 文久元年、かねてからのアメリカの圧力に抵抗仕切れなくなった江戸幕府は、末期、とうとう鎖国を解くこととなる。このことにより、開港された横浜には外国人が多く訪れ、やがて居留地が造設された。本国に比べ、狭い居留地生活に彼らはストレスを感じ始め、娯楽施設の建造を強く幕府へ要請したという。

ここではじめて行われた競馬は
まだ簡略的なものだった。
組織的な近代競馬
 「日本にやって来ている外国人たちが集まり、最初の競馬大会が開催された。馬蹄型のコースが、堀川の向こう側に作られた」“YOKOHAMA AND ITS CHANGES”japan Weekly Mail,March.23,1872に、1860年当時の回想記事として紹介されている。居留地内の海岸(横浜州干弁天社裏西、現在の横浜市中区相生町5丁目から6丁目)を埋め立て、神奈川奉公所の役人が馬術の練習に使用する目的で、馬場と馬見所が建設された。それを見た居留外国人もこの馬場を利用して、西洋式競馬を開催。これが日本における競馬のはじめてだ。1862年(文久二年)8月8、9日には居留地の裏の埋立地(横浜新田・現在の中華街内)に円形の仮の競馬場を造り、競馬施行組織「横浜レースクラブ」が居留外国人によって組織され、正式に番組を決め、本格的な近代競馬が行われ、50ドル、60ドル、80ドルの賞金も出されたという。
外国人遊歩道は現在公園とアメリカ軍居住施と
なっている
日本の外交ツール
 居住区の住民の外国人から何度も競馬場の建設を求められていた幕府だったが、1864年(元治元年)11月21日、同年の8月に勃発した生麦事件等、外国人を狙った殺人事件の賠償の一環として、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの代表者との間に横浜新田沼地に競馬場の建設を一旦とりきめた。しかし、その土地は妥当ではないという意見がでて先延ばしにしていた。というのも、かねてから日本人街であった海岸通を外国人居住地に編入するという日本側に不利な条項を取りまとめられていた「横浜居留地覚書」の改正交渉を進めていたからだ。しかし、1866年(慶応2年)に起こった大火事(豚屋火事:末広町の豚肉店で出火。外国人居住地の4分の1、日本人町3分の1が焼失した大火事)により、改正交渉は受入れられることになり、競馬場の建設地も外国人遊歩道内の根岸村に決まった。
当時の設計図が競馬場跡前のモニュメントで
見ることができる。
日本初の競馬場の誕生
 イギリス陸軍大尉の設計・監督のもとに工事を開始し、1866年(慶応2年)9月ごろ、広大な馬見所が完成した。横浜競馬場(根岸競馬場)、この競馬場こそ、日本で始めての本格的な競馬専門の競馬場である。その規模は1周1764mと大規模なもの。横浜の高台に位置しているため、海が見下ろせるその展望は最高のものだった。しかし、山の上という地形の関係で右回りでコースが設けられたため、後に建設された国内の競馬場は根岸規範とした右回りコースになってしまった。これが世界的に左回りが通常の競馬コースのなかで、現在の日本競馬が世界で類を見ない右回りとなった原因である。
この観客席から大歓声。馬券販売とともに、立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。
政府と軍の「黙許」
 根岸競馬場は暫くイギリス人によって運営されていたが、やがて経済的力の衰え、内部対立等のさまざまな問題が起こり、日本人を大量に役員を含む「ニッポンレースクラブ」が結成、設立された。1880年には天皇の下賜した花瓶を巡る「Mikado's Vase」という現在の天皇賞のルーツともとれるレースも行われ、各国の要人の社交場というだけではなく、日本人も興味をもてるものとなっていった。
 しかし、やはり「ニッポンレースクラブ」も経済的危機にさらされる。1887年(明治20年)には存続も危ぶまれていたが、政府・軍等のいわゆるお上が、外国人に人気の高い、外交に有効な手段である競馬を存続するにあたり、尽力。馬券の販売も「黙許」という形で許可した。このことで経済的な危機から回避され、存続したうえ、経済的成功をもおさめた。
森林公園の1番の高台に鎮座している。
目の前はアメリカ軍の居住地だ。

側面には扉が。入り口には当時の木札が
今も掛かっている。
現在は海の変わりにMM21地区が見える。

日本最古の競馬場のその後
 その後、第二次世界大戦の激化により閉鎖されていた根岸競馬場は戦後アメリカ軍により接収された。終戦を迎えても根岸競馬場でレースは行われないままいたずらに時間は過ぎ、根岸競馬場跡として現在は朽ちた姿で残っている。日本最古の競馬場、根岸競馬場は最後まで日本と外国の間で翻弄されてしまった。
 自分も含め、年末になると、にわかにファンが急増する近代競馬。年末はその歴史のシンボルともいえる根岸競馬場について思いを馳せるよい時季かもしれない。横浜市民として。

(横浜ベイサイドウォッチ 2007年10月25日 撮影・文 大塚みき)
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