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横浜公園にあるリチャード・ヘンリー・ブラントンの像。
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1866年(慶応2年)の※1豚屋火事(横浜大火)後、新興横浜の都市開発が進められ、太田屋新田も都市化が進み、吉田橋周辺の交通量が増加して橋が壊れてきたので翌年に修復した。しかし、地元の「もっと頑丈な鉄の橋を」という声が多く、鉄橋に架け替えることになった。
当時の県知事、寺島宗則はお雇い外国人のイギリス人土木技師ブラントンへ鉄橋建設を依頼。これを受け、ブラントンは、1869年(明治2年)の春から工事に取りかかった。この工事には多額の経費を用意することができず、ヨーロッパからの資材や人材を用意することが不可能であった。そこでブラントンは横浜で日本人の鍛冶工を見つけ、鉄材を香港から取り寄せ、横浜の灯台寮で鉄材の切断やリベット(鋲)の打ち込みを行い、それを川伝いに運んで架橋作業を進めた。この工事を見学するため、多くの浜っこ達が集まり、注目を集めたが、地元の声の多くは完成を危ぶむ不安からの声だった。 |