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第12回

たたくと文明開化の音がする?

ー かねの橋 ー

かねの橋

このコーナーは、西洋から横浜を通してはじめて日本に入った文化やモノを紹介、その歴史と現在をお伝えする温故知新企画です。今回のはじめては「かねの橋」。日本で本格的な西洋方式設計で架けられた鉄橋は、横浜がはじめてでした。

史跡 吉田橋関門跡
1954年(昭和29年)に開国100年祭を記念して吉田橋の袂に「史跡 吉田橋関門跡」の碑が建てられた。
1859年(安政6年)、東海道から横浜港への近道として、横浜道の建設が開始された。その道路工事の一環として、吉田新田から太田屋新田に通じる木製の(長さ109m)大橋を架けられた。この橋を当時、「新大橋」あるいは「太田橋」と呼んでいたが、1862年に吉田新田側から橋を架け代えたことから「吉田橋」と呼ばれるようなった。この吉田橋で横浜街や居留地へ入る人を取り締る為に、東北詰め所に関所を設けたことから、この関所の内側に位置していた地区が「関内」と呼ばれる由来となった。1861年(文久元年)に関所は吉田町側へ移動され、橋番所で通行料を徴収した。
リチャード・ヘンリー・ブラントン
横浜公園にあるリチャード・ヘンリー・ブラントンの像。
1866年(慶応2年)の※1豚屋火事(横浜大火)後、新興横浜の都市開発が進められ、太田屋新田も都市化が進み、吉田橋周辺の交通量が増加して橋が壊れてきたので翌年に修復した。しかし、地元の「もっと頑丈な鉄の橋を」という声が多く、鉄橋に架け替えることになった。
 当時の県知事、寺島宗則はお雇い外国人のイギリス人土木技師ブラントンへ鉄橋建設を依頼。これを受け、ブラントンは、1869年(明治2年)の春から工事に取りかかった。この工事には多額の経費を用意することができず、ヨーロッパからの資材や人材を用意することが不可能であった。そこでブラントンは横浜で日本人の鍛冶工を見つけ、鉄材を香港から取り寄せ、横浜の灯台寮で鉄材の切断やリベット(鋲)の打ち込みを行い、それを川伝いに運んで架橋作業を進めた。この工事を見学するため、多くの浜っこ達が集まり、注目を集めたが、地元の声の多くは完成を危ぶむ不安からの声だった。
吉田橋跡
 そんな声とは裏腹に、同年11月に橋長23.6m、幅員9.1mのわが国最初の無橋脚※2ワーレン・トラス鉄橋が無事完成した。新しいもの好きの浜っこ達はたちまち大喜び。「かねの橋」と呼び、文明開花の象徴として長く親しんできた。しかし、だんだんと老朽化が進み、1910年(明治43年)に鉄筋コンクリート製に架け換えられたが、交通量の増加や地下水のくみ上げ等から地盤沈下を起こしたため1957年に改修工事が行われ、翌年に新たな橋が架けられた。1972年(昭和47年)には大岡川が埋め立てられ、吉田橋も取り壊された。
マリナード
橋の直ぐ下は、現在、関内地下街マリナードの広場になっている。
 現在では横浜羽田線の開通により、「かねの橋」を模した新しい橋が1978年(昭和53年)に架けられ、当時の面影を残しつつ、関内駅方面とイセザキモールを繋ぐ役割を果たしている。そしてかつて大岡川だった場所は横浜市営地下鉄線関内駅に続く地下街「マリナード」へと変貌を遂げ、買い物客や帰途に着く人々の目を楽しませてくれている。普段、何気なく通り過ぎ、暮し、私たちを楽しませてくれる中村橋やマリーナード。端々に過去の息づかいが確かに聴こえる、横浜の代表的な歴史的スポットだ。

(横浜ベイサイドウォッチ2008.1.24 大塚みき)

※1:866年(慶応2年)に起こった大火事(豚屋火事:末広町の豚肉店で出火。外国人居住地の4分の1、日本人町3分の1が焼失した大火事)。
※2:側面の鉄骨が連続した三角形で組まれ、中でも単純な三角形の組み方をしているものをワーレン・トラス橋という。
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